rhのブログ

日々思ったことについて、書くかもしれない

見えている地雷を踏みに行く人が多すぎる

 「ストリートファイターV」のAmazonレビューが荒れている。低評価の嵐。

 書かれていることは、いちいちもっともなことばかりである。もっともではあるのだが、どうも釈然としないのは、低評価のレビューが続々と投稿され続けている、という事態についてだ。

 そもそもAmazonにレビューを書くような人は、普段からAmazonを利用している人がほとんどだろう。

 ということは、ストリートファイターVが低評価だということを予め知った上で買っている人がほとんどのはずである。

 わざわざ自分から評価が低いと分かりきっているものを買ってプレイして、同じような低評価の感想をAmazonレビューに書くという心理は、一体どこから来ているのだろうか。プロのドMなのだろうか。

 大体、相手は天下のストリートファイターシリーズである。今後のアップデートで低評価部分が改善される可能性はかなり高い。「ストリートファイタークロス鉄拳」のように残念なまま終わる可能性も無いわけではないが。

 だったらちょっと待ってから買えばいいじゃん。そんなこともわからずにAmazonレビュー書いてるやつってなんなの?

 と、思わないでもない。だからといって質の低いゲームを売ることが許されるわけではないが。

 これは「ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル」が発売された時にも感じたことだが、どうも世の中には「文句を言いたいがためだけに、みんなが文句を言っているものにわざわざ手を出す」という人が一定数いるように見受けられる。

 やっている本人としては、文句を言うことで意識的に、あるいは無意識的にストレスを発散しているのかもしれないが、どうもストレス発散法としてはあまり健全ではないような気がする。

 あるいは低評価レビューを多く集めることで不満をメーカーに伝えたいのかもしれないが、だったら感情的にならずに淡々と不満点だけを書けばいい。なんだか、面白くないゲームだったらどんな罵詈雑言で非難してもいいと思っている人が結構いるようで、残念なことだ。

清原のことが嫌いになれない

 僕は清原和博の、いわゆる「ファン」ではない。

 でも清原のことが嫌いではなかった。というよりむしろ、いつも気になる野球選手だった。

 

 僕が清原の存在を知ったのは、ちょうど巨人に入団した時期からだった。そういう世代だった。

 その頃は、ただの強打鈍足のホームランバッターで、怪我してばかりいる、という印象しかなかった。

 しかしオリックスに移籍した頃から、この人は何かが違う、ということに気づき始めた。かなり遅いが、ようやくそういうことがわかる年齢に、僕自身がなったのだと思う。

 通算本塁打数第5位というのも充分にスゴイのだが、とにかく大舞台やチャンスに強い。いわばエキシビジョンマッチであるオールスターゲームで活躍したため、「お祭り男」と呼ばれた。

 なによりスゴイと思うのが、サヨナラ安打・サヨナラ本塁打の数がいずれも通算第1位であるということ。バッターとして、もっともプレッシャーの掛かる場面で、もっとも実力を発揮できる。スター、としか言いようが無い。

 そして清原が打つホームランは美しかった。特にライト方向へのボールに逆らわない流し打ちは絶品だった。プレイそのものが輝く。清原はそういう選手だった。

 

 そんな清原は、巨人移籍以降、「肉体改造」と称した筋トレを行うようになった。

 確かに清原の体は一回りも二回りも大きくなったが、それにより体重が増え、明らかに怪我が増えた。

 正直言って当時の僕は、「なんで怪我してまでムキムキにこだわるんだろうか」と思っていた。

 

 最近見たテレビ番組で清原が「最近の選手は昭和の頃と違って、みんなマジメで面白くない」というようなことを言っていた。

 面白くない。ということは、清原は、「面白い選手」になろうとしていたということである。誰にとってか。もちろんファンにとって、である。

 

 記録よりも、記憶に残る選手、という言葉があるが、清原はそういう選手を目指していたのではないかと思う。

 最近のプロ野球選手はみなインタビューなどで口を揃えて「チームの勝利を最優先」と言う。しかし清原が求めていたのは、ドデカイ体で、ここ一番のチャンスに、ありえないほど凄いプレイをすることで、観客を沸かせる、というような、とてもシンプルでなものだったのではないか。そしてそれはもしかすると、スポーツというものが原初的に持つ熱狂のカタチなのかもしれない。

 そして清原は、それを実現するだけの超一流の実力と、実力以上の「何か」を持っていた。

 

 清原が求めていたものは、一言で言うなら「男の美学」というヤツなのだろう。「男の美学」。この2015年に、果たしてそんな言葉がどれほどの訴求力を持つのだろうか。

 しかしそれでも清原はそこへ突き進んだ。そして「男の美学」の没落と運命を共にするかのように、あんなことになった。

 

 僕自身は、「男の美学」というようなものとはおおよそ対極にいるような人間だ。学生時代は野球をやっていたものの万年ベンチにすら入れなかったし、今はゲームと読書が好きなインドア派である。

 ハッキリ言って、イカつい人は苦手だし、道端で出会ったらなるべく近づかないようにしている。クスリなんてもってのほかだ。

 そしてなにより、「男の美学」などという、一昔前の映画やドラマの中だけに存在したような観念に身を扮することは、子どもがヒーローごっこをするのと同程度に滑稽なことだと考えている。

 しかし清原のような、結果や数字のためではなく、自らの美学を体現するために飽くなき邁進をする男を見ると、一種のいじらしさのような感情が湧いてきて、あまり嫌いになれないのだ。

 それは例えば清原が敬愛している長渕剛についてもそうで、基本的に僕は長渕剛のことを「オカシなおっさん」として見ているが、(出始めの頃はひょろひょろのフォーク歌手だった)長渕剛が「長渕剛」になるためにこれまでどんな努力をしてきたのだろうか、とか、日々どんな努力をしているのだろうか、というようなことを思うと、一抹の同情を感じざるを得ないのである。

 

 そういう感覚は、だんだん理解されにくいものになっているのかもしれない。「ああいう体育会系でヤンキーの人は嫌だ」としか思わない人も多いのだろう。

 それも仕方のないことなのかもしれない。でもやっぱり僕は、清原のことがあまり嫌いにはなれないのだ。

「ストレッチは毎日やるべきなのか?」という問題についてひとり悶々と考える

 ストレッチというものについて考える。

 もっと上の世代はどうだか知らないが、我々ゆとり世代はわりとストレッチと身近に接してきた人が多いのではないかと思う。体育の時間にもストレッチがあったし、運動系の部活動でもちゃんとしてるところなら必ずストレッチをする。自分は文化系の部活にも入っていたが、そこでも毎回始める前にストレッチをしていた。半分運動系に近い部活だったのもあるが。

 しかし最近はめっきりストレッチをしなくなった。なぜか。

 もちろん面倒だとか忙しいだとかいう理由はある。しかしそれだけではないと思う。

 もしそれが目に見えて健康に良いことであれば、誰だって続けようするはずだ。自分もほぼ毎日筋トレをしているし、最近は電動歯ブラシを買って一日二回歯磨きをしている。朝食にはグラノーラにヨーグルトをかけたものを毎食食べている。どれも健康のためというよりは、単に気持ち良かったり美味しかったりして続けているという面が強いが。

 しかしストレッチはしない。していない。それはきっと、ストレッチの効果がイマイチ実感しにくいものだからなのだろう。

 たまーに気が向いたときに久しぶりにやるストレッチは、確かに気持ちいいし、実際に体が軽くなる感触もあったりする。しかし毎日続けていると、だんだん効果が実感しづらくなってくる。

 するとだんだん「これって効果あるのか?」とか、「そもそもストレッチって毎日やっていいものなのか?体に悪いんじゃないか?」というような疑念が心中に湧いてきて、さらにそのうちそんな気持ちすら湧いてこなくなり、単純に飽きてやめてしまう。

 

 よくネットの記事で「たった三分で体が軽くなる簡単ストレッチ!」みたいなのが話題になったりする。確かにそれをやると体が軽くなることもある。

 しかし私が知りたいのはそういうことじゃない。ストレッチの方法なんてググればいくらでも見つかる。

 私が知りたいのは、「ストレッチは毎日やるべきなのか?」ということであり、さらに言えば「オレは具体的にどんなストレッチをやるべきなのか?」ということなのだ。

 いや、わかってる。わかってるよ。「なんにでも簡単に答えを求めようとするんじゃねえよこのゆとりクソバカ野郎が」って言いたいんでしょ? って、そこまで言わなくていいじゃんか。

 わかってるよ。「必要なストレッチはその人によって違う」とかそれらしいことを言いたいんでしょ。あるいは「そもそもストレッチの有効性について、はっきりしたエビデンスは存在しない。なぜならそれほどスポーツ科学は複雑で総合的だからだ」とか優等生みたいなこと言いたいんでしょ。

 僕は、だね。実際にストレッチというものにどのように取り組むべきかという問題について考えているんだよ。そういう正論はもっと別のところでやってくれ。

 

 と、存在しない人と会話するみたいな分裂気味の文章を書いていたら、ふと「スポーツジムとかに行って専門家の意見を仰ぐのが一番早いんじゃね?」という意見が脳内より湧出した。

 正論であるだけでなく、実際的でもある。

 でもお金も無いしめんどくさいしなぁ。こういうとき、面白系のWebライターだったら実際に取材に行ったりするんだろうなぁ。

 でもアレだよね。こういうのって、結局のところ、実際にやって確かめるのが一番早かったりするんだよね。うーん、普通。やっぱり普通が一番なのか? 普通って言うな!

 

 というわけで今後しばらくストレッチを習慣にしようと心に決める。本当に続くかどうかはわからないが。とりあえず前屈あたりから始めればいいのかな?

ブログ記事には「バズる」タイトルよりも普通のタイトルをつけたい

 エルゴノミクスキーボードを買ったんですよ。それに関してはもうメインブログの方に書いたんだけど。

 で、その記事のタイトルのつけ方について、ちょっと悩んだんです。

 もし「全ブロガーはエルゴノミクスキーボードを使え!!」みたいなタイトルをつけたら、ブログを書いている人たちを中心にバズるかもしれないな、と。まぁ、多分無いけど。

 バズったらもちろんうれしい。ぶっちゃけ広告収入も入るので二度うれしい。

 でも、もしそのタイトルで記事を書いていたら、検索サイト経由のアクセスが減るんじゃないかな、とも思って。

 だって「ブロガー エルゴノミクスキーボード」みたいなキーワードじゃないと検索上位に上がってこないわけだから。

 だったら自分は、シンプルにそのキーボードの商品名だけをタイトルに入れて書くことで、そのキーボードを欲しいと思っている人がアクセスしやすくなるようにしたい。だからそういう風にした。今回はちょっと迷ったというだけで、いつもそういう風にしてるんだけど。

 別に自分がそういうやり方を正しいと思っているというわけではなくて、単純にそっちの方が自分に合っていると感じてる。

 どうも特定の誰かに向けて記事を書くのが苦手。誰ともわからない人が、たまたまアクセスしてくれて、ちゃんとその人の役に立つ、みたいなのが理想。バズることが嫌なわけじゃないけど。そもそもほとんどバズったことないし。

 っていうか「バズる」って他にもっとマトモな言い方ないの? なんかアホっぽいから嫌なんだけど。普通に「流行る」とかでいいのかな? でも「ブログ記事が流行る」ってなんか変だし。

ブログを書く時はワンテーマでなければならない問題

 ブログを書く時には、テーマをひとつに絞らなければならない。これは鉄則である。

 いや、もちろんそんなルールがあるわけじゃない。複数テーマで書いたからといって、ブログ界の神の逆鱗に触れてしまい、地は裂け海は割れ、鳥は鳴き花は咲き、養老孟司が新作「壁の壁」を書いてノーベル文学賞受賞、なんてことにはならない。私は何を言っているのだろう。

 より正確に言うならば、複数のテーマでブログ記事を書くと様々なデメリットがある、のである。

 まず、いろいろなテーマで記事を書くと、読んだ人が感想を言うのが難しくなるという問題。ひとつのテーマなら、コメントしたりSNSで拡散する時でも、ひとつの意見を書けば済むので、それだけ言及・拡散する敷居が下がるのである。

 さらに検索サイトへの最適化という観点から言っても、テーマが複数の記事はランクが上がりにくいハズだ。

 自分が検索する立場に立って考えてみればわかるが、例えば「涙を流さず玉ねぎを切る方法」を調べたいと思って検索した時、最初に出てくるサイトに「シマウマとカマドウマの見分け方」「ワンランク上の『よんどころない』の使い方」「涙を流さず玉ねぎを切る方法」「手羽先を使わずに手羽先の唐揚げを作る方法」といった複数のテーマがびっしりと書き込まれていたら、その中から目的情報を見つけ出すのは非常に困難だ。あとそのサイトを作ったやつはどうかしているので検索で病院を探したほうがいい。

 何を言いたかったのか自分でも一瞬わからなくなってしまったが、要するに、ユーザーフレンドリーならぬリーダーフレンドリーの観点から、ブログはワンテーマに絞ったほうがなにかとよろしいのではないか、ということを私は言いたい。

 もちろん、ワンテーマでなくても許される場合はある。例えば書いている人が有名人の場合、別に当たり障りのない内容であっても、興味のある人が勝手に読んでくれるので、テーマを絞る必要はない。

 もう一つ、そのブログ記事の内容がフィクション、つまり小説や詩やマンガなどの表現である場合。

 フィクションというのは、それ自体が始まりから終わりに向かって進行するものであるから、複数のテーマを扱うのに向いている。というよりも、単一のテーマのために奉仕するフィクションほどつまらないものはない。普通、進◯研ゼミのマンガを本棚に並べる人はいない。極一部のマニアならいるかもしれないが。

 そう考えると、フィクションてすげえな、と思うのだが、多分、フィクションを作るためにはなにかしらの、跳躍、が必要で、そこんところを越えられない、多分一生越えられない自分がちゃんとフィクションを作ることはできないんだろうな、という感じもする。わかんないけど。

スポーツサイクルは、良い。

 スポーツサイクルはいい。歩くよりも、走るよりも、ママチャリよりも、速く走れる。

 クロスバイクを買うなら実売り5万、ロードバイクを買うなら実売り10万以上は出したほうがいい。ネットで売っている安いやつでなく、実際に店に行って、サイズを確認して買ったほうがいい。自分は家族のお下がりのGiant Escapeに乗ってるけど。

www.giant.co.jp

 ライトとスピードメーターを買って取り付けるといい。っていうかライト無しで公道を走ったら法律に引っかかる。盗難防止のキーロックももちろん必須。

 長距離を走るなら手袋を。スピードを出すならヘルメットを買うといい。ほんとはスピードを出さなくてもヘルメットは被ったほうがいいんだけど、見た目がダサい。慣れるとそれがかっこよく見えるらしいけど、自分はまだその境地には達していない。

 サドルが小さいから最初は尻が痛くなるかもしれないが、我慢すれば2~3回で慣れる。ジーンズを履くのはあまりよくない。せめてチノパン。長ズボンを履くなら、右足の裾がギアに引っかかるのを防ぐためのベルトが売ってるから、それを巻け。ちなみに自分は一時期、野球用のストッキングベルトを巻いていた。

 スポーツサイクルに乗ると、もちろん行動範囲が広がる。しかし速く遠くに行くほど疲れる。当然のことかもしれないが、これからスポーツバイクに乗ろうという人ほど、そういう当然のことを見逃しがちだ。自転車はオートバイではないのだ。自分の力でペダルを漕がなければならない。

 あと、スポーツサイクルは荷物が積めない。よって買い物にも向いていない。それだったらママチャリに乗ったほうがいい。

 交通費を浮かせるためにスポーツサイクルに乗る、というのも、個人的にはやめたほうがいいと思う。スポーツサイクルはまずそれ自体が高価なものだし、メンテナンスにも地味に費用が掛かる。喉が乾くし腹も減る。電車やバスに乗ったほうが楽だし効率的だ。安くてメンテの手間が少ないママチャリに乗るという手もある。

 それでもやっぱりスポーツサイクルは楽しい。自分の力で、風を切って走る楽しさは、他では代えがたい。

 自分でパンクを修理したり、パーツをカスタマイズするのも楽しい。自分はトゥークリップという、時代遅れのパーツを使うことで、勝手に通ぶって悦に浸ったりしているが、それもまた楽しい。

 しかし事故には気を付けなければいけない。自分は以前、外苑周辺で他のロードバイクに後ろから追突され、リアディレーラー(後輪のギアを調節するパーツ)をぼっきり折られてしまったことがある。しかもそのロードバイク乗りには、修理中に逃げられた。よくよく考えたら単なる当て逃げであるが、後の祭り。修理費一万円強。怪我がないだけよかったが。

 それ以来、スピードを出すのはサイクリングロードだけにして、街中を走るときは、ママチャリに乗っているくらいのつもりでゆっくり走るようになった。

 と、悪いことも結構書いたが、なんだかんだ言って楽しいので、「運動をしたい」「趣味を探している」という人にはスポーツサイクルに乗ることを強くお勧めしたい。ツーリング仲間ができればもっと楽しいんじゃないかな。僕はいないけどね。

昔の自分は、面白い文章を書こうと躍起になっていた気がする

 昔の自分は、面白い文章を書こうと躍起になっていた気がする。

 最近は、なんかそういうサービス精神みたいなものが全然湧いてこない。枯れたのかな? そうかもしれない。

 自分が好きな、面白い文章を書く人みたいに、面白い文章を書こうとしていた。でも努力して面白い文章を書こうとするのは、苦しかった。しんどかった。

 今はもっと自然に文章をかけているだろうか? よくわからない。

 余計なものを取り去ってしまうと、書くべきことはあまり多くない。必要な、情報だけを、伝達すること。そしてふと思いついたどうでもいいアイデアを文章中に盛り込むこと。その程度で終わってしまう。

 それでもやっぱり文章を書くことは心地よくて、やめられない。

 もし自分が文章を書くのをやめる時が来るとしたら、それは、文章を書くことそのものがしんどくなった時、であろう。その時は意外と早く来るかもしれないな、なんて、縁起でもないことをふと思う。いや、引退宣言とかじゃないよ。ただ、ふと思っただけで。