rhのブログ

日々思ったことについて、書くかもしれない

格闘ゲームとメンタルトレーニングにまつわる随筆

 最近某プロ格闘ゲーマーがメンタルトレーニングを取り入れていることを公言している。そのことに関して少し書いてみたい。

 と言っても自分の格闘ゲームの腕は「わりと真面目にやって中級者程度」という残念なレベルだし、メンタルトレーニングに関してはズブの素人。

 なので以下はあくまでも「素人が思ったことを適当に書いたもの」以上でも以下でもない、ということをあらかじめ了承していただきたい。そんな文章読む必要あるの? と思われる方。多分正解。

 

 そもそもなぜこのテーマで書こうと思ったか。

 それは最近、格闘ゲームと向き合う際の「メンタリティ」について、あることを意識しだしてから、以前よりも少しだけ勝てるようになり、なにより格闘ゲームが楽しくなってきたから。

 そのメンタリティとはどんなものか。

 

 わざわざ「メンタリティ」なんていう横文字を使ったが、僕が言いたいのはそんなに難しいことではない。「気分」や「気持ち」と言い換えてもほぼ間違いではないと思う。

 以前から自分は、どんな気分や気持ちで格闘ゲームをプレイするのが正解なのか、あるいは正解に近いのか、ということを考えてきた。

 気分を高揚させるべきか、あるいは鎮静させるか。緊張すべきか、あるいはリラックスすべきか。負けて悔しいと思うべきか、あるいは全然悔しくないと思うべきか。それらのバランスを取るべきなのか。

 もっと簡単に言うと、「熱くなるべきなのか、クールでいるべきなのか、それともそのバランスが重要なのか」という問題。

 

 個人的な経験で言うと、熱くなったほうが反応速度が速くなるがミスが多くなり、クールだとその反対になる、と思っていた。そしてそのバランスを取ろうとするのはとても難しかった。

 ちなみに自分は学生時代に運動系の部活と文化系の部活を両方経験しているのだけれど、運動系ではとにかく熱くなることを求められたが、文化系ではむしろリラックスが大事だと教えられたように記憶している。

 

 少し話は変わるが、近年流行しているメンタルトレーニング法に、「マインドフルネス」というものがある。

 その理念をものすごく大ざっぱに言うと「ひとつのことに集中することで雑念を無くす」というもの。

 某プロゲーマーがメンタルトレーニングをしていると聞いて、最初に自分が思い浮かべたのがマインドフルネスだった。実際に某プロが実戦しているかどうかはわからないけども。

 実を言うと自分も以前からマインドフルネスには興味があった。より正確に言うとマインドフルネスの元になっていると言われる「瞑想」に。

 ちなみにそのきっかけは「スティーブ・ジョブズがやってたらしい」という、おそらくこの世で一番ミーハーな理由だったりする。

 

 話を戻すと、以前から格闘ゲームと向き合う際のメンタリティに悩んでいた自分は、下手でも下手なりにマインドフルネスを格闘ゲームに取り入れることができるんじゃないか、と考えた。

 で、格闘ゲームにおいて「ひとつのことに集中する」場合、具体的に何に集中すべきか、と考えた。

 そして自分なりに考えて出した結論をひとことで言うと「いいプレイをする」ということだった。

 対空や差し返しをすること。相手の動きを読むこと。読まれない程度に自分から攻めること。リバサ行動等を正確なタイミングで出すこと。コンボを決めること。

 そういった、ゲームを有利に導く具体的な物事について考えること、つまり「いいプレイをするにはどうすればいいか」に意識を集中すること。

 そして「勝ちたい」とか「勝たなきゃ」とか「負けたらどうしよう」とか「負けて悔しい」といったような、雑念はなるべく持たないようにすること。

 「いいプレイをすること」に集中し雑念を捨てるため(マインドフルネスの手法に則って)なるべくリラックスすること。

 

 そんなようなことを意識し始めてから、少しだけ自分のプレイが変わった、と思う。

 まず、時々自分でも思っていなかったようなプレイで試合を有利にしたり、結果的に勝利したりすることが増えた。

 練習でやったことのない対策やコンボが無意識に出来るととても楽しい。あるいは、「やってないのに出来た」ということそのものを認識できるようになったのかもしれない。

 それから、今までやったことがないことに実戦でチャレンジしてみようと思うようになった。

 ここでこの技を振ったり、この起き攻めをすればもしかしたら上手くいくかもしれない、というときに実際にやってみることが多くなり、実戦がより実りのある物になっていると思う。「負けたくない」と思わないようにしているのがプラスに働いているのかもしれない。

 

 これらの成果なのかどうかわからないが、以前よりも少しだけ勝率が良くなりランクを上げることができた。

 そしてなによりも、格闘ゲームをプレイするときのストレスが少なくなり、単純に格ゲーが楽しくなってきた、ということが一番大きな変化。

 勝てた時は自然に喜びがこみあげてくるし、負けて悔しいと思うよりも「あのときあのプレイをしたほうがよかったな」という反省点がスッと思い浮かぶだけで、嫌な気分にならなくなった。

 

 ご存知の通り人間の気分は変わりやすいので明日には別のことを考えるようになっているかもしれないが、とりあえず今意識していることとして、ここに記しておく。できればこの状態をキープしてプレイしていきたいところ。

 なんだか全体的に自己啓発じみた文章になってしまったが、対戦ゲームで上達したい人はメンタルについて意識してみると何か変わるかもしれない。

 ただしそっち方面の技術を洗脳に悪用しようとする人がいる、という話も聞いたことがある。うっかり変なセミナーにハマったりしてしまわないよう注意。「対戦ゲーム向けメンタルトレーニング」なんていうセミナーはまだどこにも無いと思うけど。

姿勢を意識したら首こりが良くなった話

 ここ2週間ほど、首がパンパンにこっていた。パソコンやスマホの使いすぎが原因だと思っていたが、叩いても揉んでも治る気配がなかった。

 姿勢が悪いのも良くないのではないか、と思い、昔読んだ健康本やネット記事を思い出しながらいろいろ試したがやはりダメだった。

 が、姿勢についてあることを意識するようにしたら、格段に首こりが改善された。

 そのひとつが「骨盤を立てる」ということ。

 ソファーにダラッと寝た姿勢が「骨盤が寝た」状態。逆にいい立ち姿勢を取ろうと腰を反りすぎてお尻が出てしまったような状態が「反り腰」の状態。

 「骨盤が寝た」状態と「反り腰」の中間、ちょうど良く自然な骨盤のポジション。これが「骨盤が立った状態」。

 そしてもうひとつ意識したことが、「肩を落とす」ということ。

 スマホやパソコンばかりやっていると、猫背になり、肩甲骨が離れてしまう。

 それと同時に、肩が上がった状態、いわゆる「怒り肩」になる。

 骨盤が立って背骨が自然なカーブを描いた状態だと、「怒り肩」傾向が改善される。

 そこでさらに肩の力を抜き、自然に肩を落とす。ただしムリに力んで肩を下げたりしてはいけない。

 

 「骨盤を立てる」「肩を落とす」この二つを意識すると、首の力みが自然に取れ、だんだんと首こりが無くなっていった。

 実は以上の身体操作は、ごく個人的に座禅の勉強をしていた時に学んだものだった。

 

禅―心と体が綺麗になる坐り方

禅―心と体が綺麗になる坐り方

 

 

 例のスティーブ・ジョブズとかのアレで一時期座禅が流行った時に、本を読んだりして自分でやってみたのだ。

 結局座禅はすぐに飽きてしまったが、それがこんな形で活きるとは思わなかった。

 っていうか座禅をやっていた当時も「この姿勢だとコリがラクになるなぁ」と感じていたような記憶がある。あまりにも記憶力がパー。

 というわけで、首こりに悩んでいる人は「座禅の姿勢」を意識してみるといいかもしれない。

 ただしこれは自分と同じような姿勢の歪みによる首こりの人にしか効果は無いかもしれない。

格闘ゲームとe-sportsについての雑記

 プロ格闘ゲーマーの動画をYoutubeなどで見る。ウメハラが地上波に出たり、ときどが経済関係の番組に出たりしている。

 ラジオを聴く。アルコアンドピースが板橋ザンギエフの話をしていたりする。

 時代は変わった、のだろうか。e-sportsの波が来ている、のだろうか。

 現実的に見れば、日本で、あるいは世界で格闘ゲームが最も盛り上がったのは、ストリートファイター2からバーチャファイター2あたりの時代、つまり90年代前半〜中盤頃なのかもしれない。売り上げ的にもメディアでの取り上げられ方的にも。

 e-sportsとして見ても、格闘ゲーム業界の規模はMOBAやFPSなどと比べれば相当小さい。プレイヤーの収入という観点から見れば、桁1つは違っているらしい。

 格闘ゲームにはまだまだ盛り上がる余地がある、のだろうか。

 

 『3月のライオン』というマンガがキッカケで、将棋に興味を持った。

 独学で少し戦法を学んだり、詰将棋アプリで遊んだりした程度だが、将棋と格闘ゲームには共通点がある、と思う。

 自己研鑽。駆け引き。戦略性。

 将棋について知るまでは、年々ゲームルールが変わっていく格闘ゲームと、永久的に変わらない将棋はちょっと違うな、と思っていた。

 しかし将棋の世界には戦術の流行り廃りというものがあり、日々新たな戦術が開発され、同じようにそれに対する対策が考案されるといういたちごっこが繰り広げられている。

 そういうのって、格ゲーのルール変更に似ているかもしれない。

 

 そして将棋も格ゲーも敷居が高い。それはもう、ムチャクチャに高い。なにしろやる人の実力がダイレクトに出るわけで。

 でもその分、努力の結果が反映されやすく、成長を実感しやすい。脳の報酬系をダイレクトに刺激してくれる。ギャンブルみたいにお金もかからない。時間はムチャクチャかかるけど。

 今はネット対戦の普及で、自分と同じくらいの強さの人と簡単に戦えるようになった。

 にも関わらず、格闘ゲームはあんまり流行ってない。なぜだろう。

 一番に思いつくのが、ハードルが高すぎる、間口が狭すぎるという問題。

 ゲームセンターが衰退の一途を辿っている現在、格闘ゲームを始めるには家庭でプレイできる環境を整えねばならない。

 ゲームハードを買い、ソフトを買い、ネット環境を引く。これだけでも人によっては難しい。今どきテレビが無い家も珍しくないらしいのでモニタも必要だし、本格的にやるならスティック型のコントローラーも要る。

 買おうと思えば100円ショップで盤と駒が買える将棋と比べれば大幅なディスアドバンテージである。

 

 それを乗り越えて格闘ゲームをプレイし始めたとして、今度は最初の一回勝てるようになるまでの道のりが果てしなく険しく、更にそこから上達するためのルートを見つけるのも途轍もなく難しい。

 RPGのように攻略本を読めば誰でもクリアできるわけではない。もちろんそれなりのセオリーはあるのだが、ただプレイするだけではそのセオリーにたどり着くことすら出来ない。人に聞く、ネットで調べる、自分で調べるなどせねばならない。

 そしてある一定のレベルに達すると、今度は自分自身に足りないものを自分で探し出す作業となる。

 自分との戦い、と言えば聞こえがいいが、あまりにもストイック過ぎて普通の人はそんなことやってられない、となるのが普通。何しろ普通。

 

 それ以前に、格闘ゲームのタイトルを制作するメーカーがちゃんとしてくれなければいけないのだが、最も主要なタイトルであるストリートファイター5があの有様。

 「対戦は面白いのにソレ以外がダメすぎる」と言われ続けてはや一年。一向に改善の気配が無い。

 他のタイトルはそれなりに頑張っている印象だが、現状で格闘ゲームのプロといえばKOFブレイブルー、鉄拳などで数名いる他は全てスト5プレイヤーに集中している。

 なによりストリートファイターには「格ゲー=ストツー」という圧倒的なブランド力がある。なのにアレがアレ。武井壮もやめちゃったし。

 まぁ大元がちゃんとしてないという点では現在の将棋界に似ていなくもないかもしれない。似ていたって良いことなんて一つもないけど。

 

 本気で格闘ゲームを流行らせたいなら、「日本格闘ゲーム協会」みたいなのを早急に作った上で、全国のアミューズメント施設で無料でスト5の快適なオンライン対戦を遊べるようにする、くらいの勢いが必要なのかもしれないけど、道のりが遠すぎて気も遠くなる。

 でもホント、格闘ゲームって面白いんだよ。見るのもやるのも。ということだけはお伝えしておきたい。

 

追記

 格闘ゲームの今後について3月のライオンと絡めて記事にしたら、翌日ウメハラがbeasTVで同じような話をしていた。プロゲーマーのレッスン問題があった直後なので十分ありえることではあるが、あまりにも奇遇だったので記念にその旨を記しておく。

ネット配信のバラエティ番組が面白くなってきている

 最近、自分好みのネット配信のバラエティ番組が増えてきている。

 以前からAmazonプライムビデオで『内村さまぁ~ず』などを観ていたのだが、最近になって『ドキュメンタル』が配信され、テレビCMがやるなどちょっとした話題になっている感がある。

 

  内容に関してはちょっとばかし言いたいこともあるのだが、あのダウンタウン松本人志がネット配信限定の番組をやったというだけでも、時代の流れを象徴した出来事だと言えるだろう。

 で、最近自分が見ているのは、まず『ぶらり路上プロレス』。博多大吉がメインの旅番組というテイで、DDT所属のレスラーたちが路上プロレスをするという番組。

 

  いかにもプロレスらしいケレン味とくだらなさで、いつまでも観ていられる。プロレス好きの大吉がイキイキしているのも実に良い。地味に旅をするレスラーがだんだんバラエティ慣れしているメンバーに替わっていっているのがなんか面白い。

 

 もうひとつAmazonプライムでは『有田と週刊プロレスと』。プロレスでかぶっているのはたまたまである。

www.amazon.co.jp

 プロレスマニアの有田が、プロレスを知らないゲストの芸人に、プロレスを通して人生のアドバイスをする番組。僕自身、半端なプロレス知識しか持ち合わせていないので実にタメになる。

 どちらも「芸人がやりたいことをやっている」という印象があり、そのおかげか観ているこちらもストレスが溜まらない。ネット配信ならではという感じ。

 

 それとAbemaTVがYoutubeに公式で番組を上げており、たまに見てしまう。全体的にアッパーなノリで若者向けなのだが、好きなタレントが出ているとチェックせざるを得ない。

 かつてはネットがテレビに勝つ日が来るのか、なんてことが言われていたような気がする(要出典)が、現実はと言えば、テレビ番組に出るタレントがネット配信の番組に出るようになっており、果たして誰が勝者なのかわからなくなってきているが、まぁ現実ってそういうもんだよね。

 なんてことを考えながら、今日もネット配信の番組を見る。テレビも見る。それなりに。

自分の頭で考える、ということについて少しだけ考えた

 かつて「自分の頭で考えよう」と盛んに言っていたブロガーがいた。

 最近はプロゲーマーとの対談本を出したりしている。

 ゲーム全般に興味がある僕は、本屋でちょっと手に取ってみたが、結局買わなかった。

 なぜ買わなかったかというと、そのブロガーが書いたブログを何度か読んだことがあったし、対談相手のプロゲーマーが書いた本も読んだことがあったからで、それらで書かれていたのと大体同じようなことが、その対談本にも書かれていたように感じたからである。

 果たしてこの結果は、僕が自分の頭を使って考えた結果なのだろうか。別にそんなことはどうだっていいんだけれども。

 

 そもそも「自分の頭で考える」ということが可能なのかどうか。自分にはよくわからない。

 なにかしらの考えが頭に浮かんだとして、果たしてそれが自分の頭から生まれた考えなのか、それともどこかから入ってきた誰かの考えを、自分の考えであると錯覚しているだけなのか、よくわからないし。そもそも自由意志というものがあるのかということから考えなければならない気がしてくるし。

 ここまで書いてきて、語の重複がやや多いのは、わざわざ同義異語(という言葉は今僕が考えた)を考えるのが面倒だからそのままにしているからなのだけれど、これは自分の頭を使って考えていると言えるのだろうか。別にそんなことはどうだっていいんだけれども。

 

 とはいうものの、「あ、今自分の頭で考えたな」と感じることは僕にもある。

 そして、そのようにして考えたことを実際に行動に移して、それがいい結果を出すと、気持ちいいな、と感じる。

 そして、そんなような成功を、僕よりもずっと大きな規模で何度も繰り返しているからこそ、くだんのブロガーは「自分の頭で考えよう」ということを繰り返し吹聴していたのだろう。

 気持ちのいいことを、気持ちのいいこととして周囲に喧伝して、それを真似した人たちが同じように気持ちよくなるのだとしたら、それはそれでいいことなのかもしれない。

 でも、自分の頭で考えているつもりで、気がついたら誰かの考えを自分の考えだと思い込まされていた、なんてことにならないように気をつけたほうがいいのかもしれない。どうでもいいけど。いや、よくないかな。

見えている地雷を踏みに行く人が多すぎる

 「ストリートファイターV」のAmazonレビューが荒れている。低評価の嵐。

 書かれていることは、いちいちもっともなことばかりである。もっともではあるのだが、どうも釈然としないのは、低評価のレビューが続々と投稿され続けている、という事態についてだ。

 そもそもAmazonにレビューを書くような人は、普段からAmazonを利用している人がほとんどだろう。

 ということは、ストリートファイターVが低評価だということを予め知った上で買っている人がほとんどのはずである。

 わざわざ自分から評価が低いと分かりきっているものを買ってプレイして、同じような低評価の感想をAmazonレビューに書くという心理は、一体どこから来ているのだろうか。プロのドMなのだろうか。

 大体、相手は天下のストリートファイターシリーズである。今後のアップデートで低評価部分が改善される可能性はかなり高い。「ストリートファイタークロス鉄拳」のように残念なまま終わる可能性も無いわけではないが。

 だったらちょっと待ってから買えばいいじゃん。そんなこともわからずにAmazonレビュー書いてるやつってなんなの?

 と、思わないでもない。だからといって質の低いゲームを売ることが許されるわけではないが。

 これは「ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル」が発売された時にも感じたことだが、どうも世の中には「文句を言いたいがためだけに、みんなが文句を言っているものにわざわざ手を出す」という人が一定数いるように見受けられる。

 やっている本人としては、文句を言うことで意識的に、あるいは無意識的にストレスを発散しているのかもしれないが、どうもストレス発散法としてはあまり健全ではないような気がする。

 あるいは低評価レビューを多く集めることで不満をメーカーに伝えたいのかもしれないが、だったら感情的にならずに淡々と不満点だけを書けばいい。なんだか、面白くないゲームだったらどんな罵詈雑言で非難してもいいと思っている人が結構いるようで、残念なことだ。

清原のことが嫌いになれない

 僕は清原和博の、いわゆる「ファン」ではない。

 でも清原のことが嫌いではなかった。というよりむしろ、いつも気になる野球選手だった。

 

 僕が清原の存在を知ったのは、ちょうど巨人に入団した時期からだった。そういう世代だった。

 その頃は、ただの強打鈍足のホームランバッターで、怪我してばかりいる、という印象しかなかった。

 しかしオリックスに移籍した頃から、この人は何かが違う、ということに気づき始めた。かなり遅いが、ようやくそういうことがわかる年齢に、僕自身がなったのだと思う。

 通算本塁打数第5位というのも充分にスゴイのだが、とにかく大舞台やチャンスに強い。いわばエキシビジョンマッチであるオールスターゲームで活躍したため、「お祭り男」と呼ばれた。

 なによりスゴイと思うのが、サヨナラ安打・サヨナラ本塁打の数がいずれも通算第1位であるということ。バッターとして、もっともプレッシャーの掛かる場面で、もっとも実力を発揮できる。スター、としか言いようが無い。

 そして清原が打つホームランは美しかった。特にライト方向へのボールに逆らわない流し打ちは絶品だった。プレイそのものが輝く。清原はそういう選手だった。

 

 そんな清原は、巨人移籍以降、「肉体改造」と称した筋トレを行うようになった。

 確かに清原の体は一回りも二回りも大きくなったが、それにより体重が増え、明らかに怪我が増えた。

 正直言って当時の僕は、「なんで怪我してまでムキムキにこだわるんだろうか」と思っていた。

 

 最近見たテレビ番組で清原が「最近の選手は昭和の頃と違って、みんなマジメで面白くない」というようなことを言っていた。

 面白くない。ということは、清原は、「面白い選手」になろうとしていたということである。誰にとってか。もちろんファンにとって、である。

 

 記録よりも、記憶に残る選手、という言葉があるが、清原はそういう選手を目指していたのではないかと思う。

 最近のプロ野球選手はみなインタビューなどで口を揃えて「チームの勝利を最優先」と言う。しかし清原が求めていたのは、ドデカイ体で、ここ一番のチャンスに、ありえないほど凄いプレイをすることで、観客を沸かせる、というような、とてもシンプルでなものだったのではないか。そしてそれはもしかすると、スポーツというものが原初的に持つ熱狂のカタチなのかもしれない。

 そして清原は、それを実現するだけの超一流の実力と、実力以上の「何か」を持っていた。

 

 清原が求めていたものは、一言で言うなら「男の美学」というヤツなのだろう。「男の美学」。この2015年に、果たしてそんな言葉がどれほどの訴求力を持つのだろうか。

 しかしそれでも清原はそこへ突き進んだ。そして「男の美学」の没落と運命を共にするかのように、あんなことになった。

 

 僕自身は、「男の美学」というようなものとはおおよそ対極にいるような人間だ。学生時代は野球をやっていたものの万年ベンチにすら入れなかったし、今はゲームと読書が好きなインドア派である。

 ハッキリ言って、イカつい人は苦手だし、道端で出会ったらなるべく近づかないようにしている。クスリなんてもってのほかだ。

 そしてなにより、「男の美学」などという、一昔前の映画やドラマの中だけに存在したような観念に身を扮することは、子どもがヒーローごっこをするのと同程度に滑稽なことだと考えている。

 しかし清原のような、結果や数字のためではなく、自らの美学を体現するために飽くなき邁進をする男を見ると、一種のいじらしさのような感情が湧いてきて、あまり嫌いになれないのだ。

 それは例えば清原が敬愛している長渕剛についてもそうで、基本的に僕は長渕剛のことを「オカシなおっさん」として見ているが、(出始めの頃はひょろひょろのフォーク歌手だった)長渕剛が「長渕剛」になるためにこれまでどんな努力をしてきたのだろうか、とか、日々どんな努力をしているのだろうか、というようなことを思うと、一抹の同情を感じざるを得ないのである。

 

 そういう感覚は、だんだん理解されにくいものになっているのかもしれない。「ああいう体育会系でヤンキーの人は嫌だ」としか思わない人も多いのだろう。

 それも仕方のないことなのかもしれない。でもやっぱり僕は、清原のことがあまり嫌いにはなれないのだ。