rhのブログ

日々思ったことについて、書くかもしれない

「リスクとリターン」から考える、格闘ゲームの上達法と、スーパープレイの意味

人は確実なものより不確実なものを好む。
100%の成功よりも、10%の大成功を求める。
わずかな成功の可能性に賭け、実際に成功した人を、偉人やスターなどと呼び持て囃す。
なぜだろう?
それが生存戦略上有利だったから、という仮説には、まぁ一応説得力がある。
そもそも現実にも自然にも100%の成功は存在しないわけで。今の環境に飽き足らず、新たな環境を求めた人類が、結果的に生き延びてきた、と。


そこから自分が考えるのは対戦ゲーム、というか主に対戦格闘ゲームのことなんだけど、対戦ゲームは、初心者の段階では、とにかくリスクを減らすことが上達の第一歩。
プレイミス、というのが最大のリスクであり、これを減らすのが最重要。
そこから、これをやれば必ずリスクを減らしリターンを確実に得られるまたは得やすくなるというプレイを覚えていく。
その段階を踏めば、基本的には誰でもゲームが上手くなる。
でもその段階はあまり面白くない。
なぜなら、人は潜在的にリスクを抱えたいと考えているからであり、リスクを負う危険を犯しながらリターンを得たいから、なのかもしれない。
ただリスクを減らすだけの練習は面白くない。単純な繰り返しと同じで。


じゃあ上級者になれば、リスクを抱える楽しさが味わえるか、というと必ずしもそうではない。
問われるのは「リスクヘッジ」の能力なのではないか、と考えている。
このプレイにはこういうリスクがある。
この状況ではこのリスクを受け入れられるのでこのプレイングをしていい。
このプレイングは本来リスクが高いが、相手のプレイングにはこういう傾向があるので、リスクは低くなる。
というようにリスクとリターンを勘案しながらプレイングできるのが、上級者。
上級者同士の対戦だと「読み合いが回る」という状態が起こるが、リスク・リターンの駆け引きが速いペースで移り変わっている状況を指していると言える。


時にスーパープレイと呼ばれるプレイングが飛び出すが、「本来はありえない超ハイリスクな行動を成功させる」というケースがある(全てのスーパープレイがそれに該当するというわけではない)。
実際は明確なリスク・リターンの判断があってその行動を取っている場合が多いのだけれど、そこには上記のように「あえてリスクを取る人をスーパースターとして持ち上げる」のと同じような心理が働いているのかもしれない。

YouTubeの「おすすめ」が個人の力を弱体化させているのではないか

 彼の人を自分の人生の数多くある灯火のひとつとして生きてきた人としては、どのように考えればよいのか、という気持ちもある。でもまあ全てが全否定されたわけじゃない。

 みんなが薄々感じていたことを言語化する。その才能にこそ光を見ていたのだから。というのはこっちの話。

 

 インターネットが面白くないということ。今自分が一番それを感じているのがYouTubeのオススメ欄。

 オススメ欄は同じような動画ばかり。均質。均等。そこに「外部」がない。

 オススメ以外の動画を探す機能は人気動画しかない。それらはいかにも大衆が好みそうなものばかり。もちろんそれが悪いわけじゃない。それだけじゃ面白くないし広がりがない、っていう話をしている。

 パーソナライズすることが至上、と、今のインターネットをつくる人は考えている。
でもそれは個人を個人の興味の中に閉じ込める、小さなカプセル化を進めているだけではないか。

 結果的に、個人の力を弱めているのではないか。

 個人をエンパワーメントするなら、いかに興味が無いことに興味を持たせるかが大事なんじゃないか。今のインターネットのパーソナライズはその逆を行っている。

 

 ということを氏は言いたかったのではないか。その裏返しがアレ。

 以前から氏の文章にはなにか違和感があった。

 なにかを説く時に、それをまるで氏自身に言い聞かせているように見えるときがあった。

 その反対意見を覆い隠すために。

 なにかについて「これこれこうなんじゃないか」と説きながら、その反対の意見をあえて見ないようにしている。

 逆の意見を否定するのではなく、正の意見で塗りつぶしているような。その手付きは暴力性というよりは、やんわりとした拒否、見ないふりに近いような。

 でもそこには真実を覆い隠そうとか大衆を先導しようとかそういう意図があるようには見えない。

 肯定性を覆い隠すことで、どうにか逃げ延びさせようとしている。そんな印象がある。

 というのはあくまで個人的な印象。

 


 パーソナライズによる個人の弱体化に抗わなければいけない。

 でもそれは単にパーソナライズから逃れるだけでは叶わない。

 その内側で、囲い込みを打ち破るような何かを目指さなければならない。

 と、頭のいい学者の人は言いそうな気がする。

 自分はそんなに頭が良くないので単なる勘だけれども。

気持ちいい運動はどこかにないものか。

木刀の素振りは気持ちいい。筋トレは気持ちよくない。その違いはなにか。

っていうかもうずっと前から筋トレをやめたいと思い続けている。

筋肉を痛めつけるような動きが体に良いわけが無い。たしかに筋肉は肥大する。でも体にとって不自然な動きを癖づけることになる。

でも他にいい運動が見つからない。家でできる手軽な運動が。だから腕立てやスクワットをしている。

巷にある運動の指南書はそのあたりを軽んじているようにみえる。ひじとつま先で地面に伏せて体をまっすぐに伸ばす運動がやってて気持ちいいわけが無い。

それは科学的に正しい運動なのかもしれないが、心理学的には正しくないんじゃないのか。しんどくて続かないのであれば。


しかし何を気持ちいと感じるかはその人次第、という問題がある。世の中にはスクワットなら気持ちよくていくらでもできるという人いるのかもしれない。

木刀を素振りする気持ちよさは、剣をびゅんびゅん振る感触だとか、フォームを安定させるための程よい集中力の使い方にある。それを別に気持ちいいと感じない人もいるだろう。

それに世の中にはヨガとかピラティスとか太極拳とか、筋肉を鍛える以外の運動がいくらでもある。そういうのの中から自分に向いたものを探すべきなんだろう。指南書に文句を言うんじゃなく。

しかしそう考えてみると、「日本の伝統的な健康体操」がすぐには思いつかない。GHQによって歴史から抹消されたのか? などと疑ってみるもまたをかし。

時代劇の登場人物が朝起きてなにかしらの運動をするさまを想像できるだろうか? ちょっとできない。せいぜい水浴びとかが限界。

ずっと伝わっている運動というとみんな武道になってしまう。道を極めなければいけないようなニュアンスが生じる。そういうんじゃあない。こっちはただ健康になりたいだけで。なにか日本人的な発想のクセが影響しているのかも。

 

 

あるVTuber集団にハマった人間の記録 #3

ショックを受けている。辞めたその人が特別に好きだったからではない。むしろメンヘラぶってガチ恋営業ばかりしているので好感度は高くなかった。

自分はそのVTuber集団をフォローすることによって、その集団が作り出す関係性、大げさに言えばユニバース全体を消費していた。

もちろんそれが視聴者に向けて構築されコントロールされたエンターテイメントだということはわかっていた。全部がウソなわけでもなければ全部が本当というわけでもない。

しかし今回の件は、そのようにしてこれまで築き上げられてきた幻想にヒビを入れるものだった。

事件の発端そのものが、ではない。もちろんあれ自体はかなり大きなミスだったのは間違いない。少なくともVTuberとしての人気には大いにダメージが入っただろう。

だとしても、「失敗してしまいましたすいません」という態度を取ってさえいれば、最低限の表面上の体裁を取り繕うことは出来たはずだ。後に禍根を残すことになったにせよ。

しかしその人はそうしなかった。様々な噂や憶測が流れてはいるが、その本意や真相は結局のところ部外者にはわからない。

ただ確かなことは、その人は今まで作り上げてきたエンターテイメント、イコール幻想を維持することを選ばなかったこと、少なくともその形跡が一つも見られなかったことだ。おそらく我々の与り知らない別の何かを優先したのだろう。

そのことにショックを受けている。

 

こうして改めて文章にしてみると、自分自身が結構グロテスクなことを考えていたんだな、と思い知らされる。

個人の利益より全体の幻想を優先することを願うだなんて。

 

それはそれである意味良かったのかもしれない。幻想が幻想だとはっきり再認識できたのだから。

それに元々、自分は自分にとって面白いと感じる配信をフォローしていただけだった(だからこそ件の人の配信はほとんど見たことがなかった)のだから、これからもそれを続けるだけだ。同じような気持ちで見続けられるかどうかはまだわからないけれども。

「基本無料」のゲーム・YouTuberについて思うこと。

 基本無料のゲーム。無料で視聴できるYouTuber。気がつけばそういうものばかり利用している自分がいる。

 タダだから、という側面はある。大いにある。でもそれだけじゃない。

 基本無料のものが人気を集めるようになっている。それもナンバーワンクラスの人気になることが珍しくなくなっている。ゆえにトレンドを追いかけようとすると、基本無料のものを無視することができなくなっている。

 基本無料のものは大抵そのほとんどの部分を無料で楽しめる。コレが無料でいいの? と思うほどのお得感。

 しかしそのお得さは、何割かの課金者によって支えられているものだ。無課金者が課金者に転向するのは、そのような構造に対する後ろめたさも要因なのかもしれない。

 無課金・微課金であることの後ろめたさ。重課金者を見かけた時の「そんなに熱心にならなくても……」という気持ち。天井なしにお金を注ぎ込めてしまう「課金」というシステムそのものへの是非。

 そういった複雑な気持ちを抱えながら今日も基本無料サービスを使っている。

 おそらく生活に困らない程度に裕福な人たちには全く別の景色が見えているのだろう。従来型の買い切りシステムに加えて、良質なサブスクリプションサービスが世にはある。

 そう考えると、基本無料サービスの重課金者になっている人は、本来重課金するほどの余裕がない人が多いような印象が無くはない。いわゆる「なけなしのお金」を基本無料のサービスに注ぎ込む。あくまで個人的な印象だけれど。

 自制心の弱い人ほど課金してしまうという意味でギャンブルと通じている。そういうものが敷衍したネットの世界。こんな風になるとは思わなかった。こんな世界にいるということを自覚してネットワールドをウォークしていきたいものだ。なんで最後だけ英語になった。

自分のドラクエの記憶

 即物的なものについて書くのは気が楽だ。ゲームの攻略法とか。買ったもののこととか。

 でもたまにはもう少し複雑なことについて書きたくなる。必ずしも複雑なことを書けるだけの能力を持っているわけじゃないけれども。



 ドラゴンクエストの音楽、そしてドラクエについて。自分にとってドラクエと言えば5。作品の内容どうこうよりも、単純に生まれた世代の影響が大きいと思う。幼いながらに小説版を読んでいた。

 逆に言えばそれ以外のシリーズ作品に対しては、自分でも意外なほど思い入れが無い。スーファミの1、2のセット、6、3、どれもリアルタイムでまともにクリアした記憶がない。大体家族がプレイしているのを後ろで見ていた。

 よく考えてみればスーファミの頃でもまだ年齢的に幼かった。強く記憶に残っているスーファミRPGと言えばドラクエ5FF6くらい。その後PS世代になってからアークザラッドFF8ヴァルキリープロファイルサガフロンティア2などを自分から進んでプレイしていった。

 話をドラクエに戻そう。

 ドラクエ5の音楽は、限られたスーファミのスペックの中でも、音楽知識の無かった自分に「オーケストラ」を感じさせることに成功していたと思う。なにせリメイク版のフルオーケストラ版を聴いてもほとんど当時と違和感が無いのだ。町のBGMのフルート感、城のBGMのトランペット感(で楽器が合っているのか今でも自身は無い)が、ブラウン管を通して如実に表されていた。

 洞窟のおどろおどろしさ。天空城の天空感。挙げていけばキリがないが、その音楽と情景が、まるでテーブルのコップを取り上げるみたいに簡単に記憶から取り出すことができる。そのような記憶がいかに得難いものであるか、歳をとって初めてわかる。

 5以降のシリーズ作品もほぼリアルタイムでプレイしていない。6、7、8、9と、家族が遊んでいるのを横目で見るだけだった。9は家族がDSに飽き、自分もPSPでモンハンするのに飽きた頃にストーリーだけクリアした。8は3DS版をやった。6は最近スマホでクリアした。10は完全にノータッチ。

 しかしそんな距離感だったにも関わらず、世間の評価と同じように、自分の中でもドラクエは「国民的RPG」のポジションにあり続けた。考えてみればちょっと不思議なことではある。

 そして実に5ぶりにリアルタイムでプレイしたドラクエ11。「ドラクエの最新作」としては100点満点のクオリティだった。ただ音楽に関しては過去作の使い回しが気になった。作曲者の年齢を考えれば無理もないことだったのはわかっていたけれども。

あるVTuber集団にハマった人間の記録 #2

引き続きVTuberにハマっている自分についての記録。

相変わらず文章を書くことでしか自分を理解できない自分。

特に真新しい知見があるわけじゃない、と思う。ただ書くことでものごとを相対化したいだけだ。

 

人気があるVTuberは、いずれも何かしらの能力を持っている。

ゲーム実況が上手い人。

画力のある人。

トーク力がある人。

コミュニケーション力が高く人間関係を構築し配信上で優位に立てる人。

男性的、もしくは女性的魅力でアピール出来る人。

人気がある人には、それだけの理由がある。

 

自分はアイドル的なもの全般を昔も今も好意的に見ていないが、それはそれとして、いわゆるアイドルと呼ばれる人々のうちの人気が高い人は、ほとんどいずれも何かしらの能力に秀でている。そのことは認めるようにしている。「アイドルなんてみんなクソだ」みたいな切り捨ては爽快ではあるが、現実を見誤ることになるから。

そしてそのあたりの事情はVTuberに関しても変わらない。

 

しかし特定の分野の専門家以上に優れていることは稀だ。

そもそも優れた専門的能力を持っているのであれば、VTuberになる必然性は薄い。

 

 

 

人気稼業の危うさも目の当たりにしている。

もちろんそれを知識としては知っていた。でも現在進行系でそういうものに接するのは初めてかもしれない。

人気VTuberは極めて多忙である。連日の動画配信に加え、企画会議、ボーカルやダンスのレッスン、英語学習などをこなしている。

ゆえに体調不良などで活動を一時的に休止する人が多い。

なぜそのような過密なスケジュールになるかといえば、アイドルには人気の波があるから。

人気を「賞味期限」でたとえるより、「旬」でたとえたほうが適していると思う。最も人気が高いとき活動を増やす。それによりさらに人気を高める。そのようないわば人気のインフレーションによって人気アイドルは生まれる。

だから「無理せず持続可能な活動を」などとは言っていられない。

ある人がアイドルの定義を「実力以上に人気が高い人」と言っていたが、いわゆる人気VTuberもそれに当てはまるだろう。

 

厄介なのは「無理して頑張る姿」をも、ファンは消費しているということ。

逆境に立つ人を「推し」たくなる心理を利用しているのである。

喋り過ぎで声が出ないだとか、病気で手術しただとか、ネット上で誹謗中傷を受けているだとか、過去の苦労話だとか、あまつさえ精神的な不調ですら公にする。

 

 

 

人気VTuberの人気を支えているのは、いわゆる投げ銭システムで数万円以上の投げ銭をするコアなファン層だろう。

他には企業とのタイアップ、いわゆる「案件」もある。チャンネル登録者数などファンの数字も人気を表すファクターにはなる。

でも根幹において人気を支えているのはやはりコア層なのだろう。多分。数字を分析したりしたわけではないから確かじゃないけど。

そこにはファン同士の競争心理も生まれるだろう。

そのような構造を持ったものと関わることは、果たして良きことなのだろうか?

それはガチャ課金システムを搭載したゲームをプレイしているときも感じる疑念だ。