rhのブログ

日々思ったことについて、書くかもしれない

あるVTuber集団にハマった人の話

 とある事務所のVTuber集団にハマっている。

 ハマり。それが良いことなのか。いい年になるともうわからなくなってくる。

 愛とは苦しみと表裏一体である。比喩とかそういうのじゃなく。

 何かを欲望することは、それが手に入らない苦しみを味わうこととワンセットだ。

 だから人はもっと欲望するものを得ようとする。そして苦しみは増大する。

 そのことに論理的に、あるいは本能的に気がついている人は、欲望の対象が得られないことを、他の何らかの行為や物で代償しようとする。

 そうやってままならない現実と折り合いをつけようとする。それが大人の人生術。

 

 

 そんな話をしたいんじゃなかった。

 やはりこれだけハマっているんだったら、何かを書き残しておきたくなったのだ。

 どうやって書くか結構迷った。

 しかし改めて考えてみるとなぜ迷う必要があるのだろう。

 好きなものについて好きなように書く。シンプル。

 なぜ迷ったかと言えば、端的に言ってしまえば、VTuberが炎上ばかりしているから、だろう。

 それだけVTuberについて書くことはセンシティブだ、ということになる。

 そんなことを気にする意識が自分の中にあったことに少し驚いている。環境の目を気にする内なる目があったことに。

 

 

 そのVTuber集団を好きになった最大の理由は「ゲームをメチャクチャ楽しそうにプレイするから」だろう。

 とにかくテンションが高い。とにかくリアクションが良い。もちろんVTuber同士で複数人プレイもする。

 しかもプレイするゲームのタイトルが自分の世代に刺さるものが多い。

 自分の好きなゲームを楽しそうにプレイしてくれる。だから楽しい。

 

 

 もうひとつが「会話が楽しい」ということ。

 人気の高いVTuberは会話が上手い。というか会話がうまいから人気VTuberになれる、と言ったほうが正しい。頭の回転が速い。一人喋りもVTuber同士の会話も視聴者を飽きさせない。

 

 

 他にも企画の上手さやSNSの立ち回りの上手さといった要素もあるが、これらは才能のある人達が不断の努力によって作り上げているものだ。正直自分は今までVTuberをナメていました。

 あと海外人気が高いのも、海外コンプレックス気味の自分には刺さっているのかもしれない。最近は海外視聴者の作ったミームばかり見ている。

 ゲーム制作会社と公式にコラボレーションしているVTuberがいることも最近まで知らなかった。

 今のところVTuberのアイドル的な活動にはあまり興味が湧いていないし、その予兆も自分の中にない。元々アイドルが好きではないので。先のことはわからないが。

 

 

 それだけVTuberにハマっているにも関わらず、人気商売的なものを冷めた目で見ている自分もまだ存在している。

 それもまた、自分がこの件について書くのをためらわせた理由のひとつなのだろうと、ここまで書いてきて思った。

 完全にとはいかないが、書くことで多少はモヤモヤが晴れたので今のところはそれで良しとしよう。

対戦ゲームの初心者狩り対策に通報機能をつける、という思考実験

「対戦ゲームで初心者狩りをする上級者は悪だ」という考え方は、所詮弱者のルサンチマンでしか無い。

詳しくはニーチェ先生の本を読みましょう。

以上、終わり。

 

と、話を終わらせることもできるんだけど。

一方で、初心者狩りが初心者を減らしてしまうことも事実。

そしてプレイヤーが減った先に待っているのはジャンルそのものの先細りだ。

 

ところでなぜ武道で礼節を重んじるのか。あるいはなぜ将棋で敗者が「負けました」と言うのか。

それは、勝者が驕り、敗者が不貞腐れるのが、古来から変わらない人間の心理だからだろう。

ちなみに武道家が不祥事を起こす度にとやかく言う人をネットでよく見るが(ネットばかり見ている)、アレは多分順序が違う。

力を持った人間は傲慢になる。それを諌めるために礼節を重んじているのだろう。多分。

 

対戦ゲームのオンライン対戦にも、煽ったり怠慢プレイをしたりするマナーの悪いプレイヤーを通報する機能があってもいいのかもしれない。

切断や暴言など悪質な行為を通報する機能は既にあるが、それ以前のマナーのレベルで。FPSで言えば死体撃ちとか屈伸煽りとか。

初心者狩りに関しては「故意の初心者狩り(ランク下げ)」というような項目を作ればいい。
そこで大量の通報が入った人は初心者狩り同士でマッチングするようにすればいい。

あるいはゲームメーカーが今以上に積極的にマナーの向上を呼びかける、という方向性も考えられる。

 

もしそうなったら古き良き「勝者が絶対」という文化は廃れていくかもしれない。

僕自身、細かいマナーをとやかく言うのは好きではない。

でも対戦ゲームをeスポーツと呼んで競技化していく方向で進むのであれば、今後このような議論もありうると思う。

ベストを尽くすにはどうすればいいか

ベストを尽くしていない。俺はベストを尽くせてない。そのことを身に染みて感じている。
もちろん物事にはベストを尽くせるものと、そうでないものがある。
全てに対してベストを尽くすことはできない。
例えば、ベストな人生とは何か? それは誰にもわからない。
しかし。しかしだ。
そーいう大げさな話じゃあなく。
もっともっとごく身近な問題について、自分はベストを目指せてない。それを実感する出来事があったのだ。
色々と。実に色々と。しょーもないことが。


怠惰のせいにするのは簡単だ。
でも常にベストを尽くそうとしてあらゆる物事に対してアンテナを張り続けるには、尋常でない精神力が必要になるだろう。
実質不可能だ。まして自分の精神力は人並み以下。
っていうかそもそもそういう極端な考え方をするべきじゃない。
ベストっていう言葉を使おうとすると、人はどうしても極端になりがちだ。
小さなことからコツコツと。気づいたことからちょっとずつベストを目指す。多分それが一番いいんだろう。

 

スマホ・パソコン人間はランニングで身体をほぐせ

 ランニングをした。

 自分のように毎日画面ばかり見ているスマホ・パソコン人間にとって、運動する上で最も障壁となるのは、体力不足よりもなによりも、身体の凝りである。

 とにかく身体が凝ってスムーズに動かない。首・背中・腰・股関節・膝などあらゆる関節やそれらに付随する筋肉・靭帯が固まってしまっている。

 なので自分にとっての運動は、体をほぐすことが第一の目的となる。いつでも常に。

 最初はとにかく体を動かせばいい。ランニングの場合はとにかくゆっくりトロトロとジョグペースで走る。ここで焦って速く走ろうとしてはいけない。ただただ疲れが溜まって身体を悪くするだけだから。自動車で例えるなら、まず古くなって硬化したタイヤを交換する作業といえる。

 時間をかけてゆっくり身体をほぐせば、少しずつ関節の可動域が広がっていき、無理せず速く走れるようになってくる。タイヤを新品に変えれば、同じ出力のエンジンでもよりスピードを出せる。まぁ実際のところ車のタイヤは新品よりも少し使って慣らしたほうが速く走れるんだけど(ゲーム知識)、あくまで例えなので。

 

 そのようにして日々身体をほぐしていくことで健康になれればそれがベストなのだけれど、自分のようなスマホ・パソコン人間の場合、数日開けて次にランニングするとまた身体が元の硬さに戻ってしまっている。また一からやり直し。賽の河原の石積み。

 それを防ぐためにはほぼ毎日ランニングすべきなのだろう。スマホ・パソコン人間からランニング人間へのクラスチェンジ。

 でも毎日走るのってそれはそれで健康に悪そうなのでやりたくない。

 なのでこれからもランニング走り始めトロトロ人間として生きていくのだろう。

格闘ゲームでは正しいプレイを求めすぎないほうが良いかもしれない

格闘ゲームで勝ちたいなら、画面を見ることのに集中すべきだ。
それは絶対的に正しい。100%の真理だ。
でも正しさには落とし穴がある。

正しさを求めることや、100%を求めることが、常に正しい態度だとは限らない。
「正しい行動を常に求める」という態度が、時に間違いを引き起こすケースは、いろいろな説話、物語、ことわざ、あるいは神話なんかを引っ張ってくればいくらでも見つかるだろう。
正しさを求めすぎて周りが見えなくなる。他の選択肢が選べなくなってしまう。それが怖い。
格闘ゲームにはどんな戦い方があっても良い。人間にどんな生き方があっても良いのと同じように。
視野は広く持つべきだ。だからたまには正しくないやり方をするのも間違いではない。画面を見ずに荒らしプレイ。必要のない起き攻め昇竜で「わからせる」。
例えばそれが対戦相手のプレイを許す心のゆとりを生んで、遠回しに勝ちを引き寄せてくれるかもしれない。

そんなことを考えながら、今日もク○キャラのしょーもない二択にブチギレたりしている。そんな対戦の日々。

『ストリートファイターV』が簡単化した功罪について

ストリートファイターV』は格闘ゲームとして面白いのかどうかについて考える。

自分はストVを極めたわけでもなんでも無い。

だから外側のことから考えてみたい。

外側とはなにか。

それはゲームそのものの周りにいるプレイヤーのことであり、主にプロゲーマー達による試合を観ている側のことでもある。

プレイヤーや観客(観戦料を取る格闘ゲームの興行はかなり少ないので客と呼ぶべきかどうかわからないが今は観客と呼ぶ)はどのようにストリートファイターVを受け取っているか。

というと主語が大きくなってしまっている。

筆者である自分が、一人のプレイヤー、一人の観客として自分がどのようにストリートファイターVを受け取っているか。

それについて書いていきたい。

つまりこれから書くことは個人の感想だ。

などという当たり前のことを言うのにずいぶん行数をかけてしまった。

 

ストリートファイターVは操作が簡単だ。

以下の専門用語は読み飛ばしていいが、先行入力があるので目押しが簡単だったり、投げ抜け仕込みが廃止されていたり。

その結果、これまでのシリーズ作品と比べれば格闘ゲーム初心者にもとっつきやすいゲーム性になっている。

しかし簡単になったということは、難しいことができなくなったことをも意味している。

プレイヤーとして「やりこみ」で実力を磨く楽しみや、観客として上級者による高度な「やりこみ」を味わう楽しみ方がしにくくなってしまった。

やや極端な言い方になるが、コンボもセットプレイ(定型化された攻めの手順)も防御も、それそのものだけを取り出せば、ある程度格闘ゲーム経験のある人なら誰でも真似ができるものになってしまっている。

上級者ほど皆似たようなプレイングになり、個性が見えにくくなっている。

観客が注目するのは「やりこみ」よりも、「瞬間的な操作精度の高さ」や「ピンチに動じない精神力」など属人的な要素に寄り添うようになった。

それは必ずしも悪いことではない。

上級者の超絶技巧を楽しむにはそれなりのリテラシーが必要だ。

それよりも属人的な部分に注目するほうが「観客初心者」にとってもわかりやすい。

プレイする人も、観る人も、どちらにとっても間口を広げた格闘ゲーム。それがストリートファイターVだ。

しかし古き良き格闘ゲームの醍醐味であった「やりこみ」の妙は確実に失われてしまった。

 

とはいえ個性的なプレイが完全に無くなってしまったわけではない。

他の追随を許さない操作精度を誇るアメリカの若きプレイヤー。長期戦でセオリーの真逆を行く戦法で年下を破り年功を見せつけたカリスマ。

なにより高度なプレイを実現すべく日々研鑽努力しているプロプレイヤーたちの実力は紛れもない本物だ。時代の潮流に合わせ配信業に力を入れている者達もいる。

 

ここまで考えてみて、「古き良き」ゲーム性を捨て間口を広げたストVの方向性は、たとえ古参格闘ゲーマーを切り捨てることになったとしても、結果的に正しかったように思えてくる。個人的にストVのゲーム性は好みではないけれども。

格ゲー発展のためにどんなゲームがあるべきなのか。答えはまだない。でも最近思うのだけれど、例えあるブランドやプロシーンに何かがあったとしても、格闘ゲームというフォーマットそのものが廃れることはそうそうないんじゃないかと思う。1対1で殴り合いメインで戦って相手の体力を奪い合うアクションゲームを「格闘ゲーム」と呼ぶのであれば。

現にスマブラも最近は格闘ゲームとして認知されてきているし、海外ではリーグ・オブ・レジェンド、国内ではグランブルーファンタジーなど他ジャンルの人気タイトルが格闘ゲームの発売を予定している。

何にせよあらゆる人にとって面白い格闘ゲームが生まれ続けることを祈ってやまない。

モンスターハンターワールド:アイスボーンのリオレウス希少種は強い。

アイスボーンのリオレウス希少種は強い。
ずっと滞空している。
怒り時の波状攻撃は凄まじい。
ブレス攻撃で起き攻めしてくる。
肉質も固い。
近接武器で地上戦をすること自体がほぼ困難だ。

しかしライトボウガンの徹甲榴弾であれば比較的簡単に討伐できる。
装衣とクラッチクローを駆使して対抗する手もある。
あるいはよほどプレイスキルに自信がある人なら、モーションを完全に見切って回避し、反撃に転ずることもできるだろう。

でも正直に言って今の自分の心には、そこまでしてリオレウス希少種を狩りたいという気持ちが1ミリも湧いてきていない。なぜだろう。
強すぎて狩るのがしんどいから、という説明は一応理屈が通っている。
だがちょっと思い出してみる。確かMHP3の頃のリオレウス希少種も同じくらい強かった。そしてその頃は、ライトボウガンのW強化属性弾速射という、アイスボーンの徹甲榴弾戦法と同じような方法で頑張って狩猟していたハズだ。

ではなぜアイスボーンのリオレウス希少種に対しては前向きになれないのか。
モンスターが変わっていないとすれば、変わったのはプレイヤーである自分自身、と考えるべきだろう。
年齢を重ねて激しいゲームについていけなくなったのか。
いろいろなゲームをプレイしたり、リアル人生の経験を積んだことで、趣味嗜好が変わったのか。
そもそもMHP3という9年も前のゲームと同じようなことをやるのを体が拒否しているのか。
どれが理由なのかはわからない。あるいはどれも理由ではないのかもしれない。
いずれにせよ変化を受け入れなければならないのかもしれない。