僕は清原和博の、いわゆる「ファン」ではない。
でも清原のことが嫌いではなかった。というよりむしろ、いつも気になる野球選手だった。
僕が清原の存在を知ったのは、ちょうど巨人に入団した時期からだった。そういう世代だった。
その頃は、ただの強打鈍足のホームランバッターで、怪我してばかりいる、という印象しかなかった。
しかしオリックスに移籍した頃から、この人は何かが違う、ということに気づき始めた。かなり遅いが、ようやくそういうことがわかる年齢に、僕自身がなったのだと思う。
通算本塁打数第5位というのも充分にスゴイのだが、とにかく大舞台やチャンスに強い。いわばエキシビジョンマッチであるオールスターゲームで活躍したため、「お祭り男」と呼ばれた。
なによりスゴイと思うのが、サヨナラ安打・サヨナラ本塁打の数がいずれも通算第1位であるということ。バッターとして、もっともプレッシャーの掛かる場面で、もっとも実力を発揮できる。スター、としか言いようが無い。
そして清原が打つホームランは美しかった。特にライト方向へのボールに逆らわない流し打ちは絶品だった。プレイそのものが輝く。清原はそういう選手だった。
そんな清原は、巨人移籍以降、「肉体改造」と称した筋トレを行うようになった。
確かに清原の体は一回りも二回りも大きくなったが、それにより体重が増え、明らかに怪我が増えた。
正直言って当時の僕は、「なんで怪我してまでムキムキにこだわるんだろうか」と思っていた。
最近見たテレビ番組で清原が「最近の選手は昭和の頃と違って、みんなマジメで面白くない」というようなことを言っていた。
面白くない。ということは、清原は、「面白い選手」になろうとしていたということである。誰にとってか。もちろんファンにとって、である。
記録よりも、記憶に残る選手、という言葉があるが、清原はそういう選手を目指していたのではないかと思う。
最近のプロ野球選手はみなインタビューなどで口を揃えて「チームの勝利を最優先」と言う。しかし清原が求めていたのは、ドデカイ体で、ここ一番のチャンスに、ありえないほど凄いプレイをすることで、観客を沸かせる、というような、とてもシンプルでなものだったのではないか。そしてそれはもしかすると、スポーツというものが原初的に持つ熱狂のカタチなのかもしれない。
そして清原は、それを実現するだけの超一流の実力と、実力以上の「何か」を持っていた。
清原が求めていたものは、一言で言うなら「男の美学」というヤツなのだろう。「男の美学」。この2015年に、果たしてそんな言葉がどれほどの訴求力を持つのだろうか。
しかしそれでも清原はそこへ突き進んだ。そして「男の美学」の没落と運命を共にするかのように、あんなことになった。
僕自身は、「男の美学」というようなものとはおおよそ対極にいるような人間だ。学生時代は野球をやっていたものの万年ベンチにすら入れなかったし、今はゲームと読書が好きなインドア派である。
ハッキリ言って、イカつい人は苦手だし、道端で出会ったらなるべく近づかないようにしている。クスリなんてもってのほかだ。
そしてなにより、「男の美学」などという、一昔前の映画やドラマの中だけに存在したような観念に身を扮することは、子どもがヒーローごっこをするのと同程度に滑稽なことだと考えている。
しかし清原のような、結果や数字のためではなく、自らの美学を体現するために飽くなき邁進をする男を見ると、一種のいじらしさのような感情が湧いてきて、あまり嫌いになれないのだ。
それは例えば清原が敬愛している長渕剛についてもそうで、基本的に僕は長渕剛のことを「オカシなおっさん」として見ているが、(出始めの頃はひょろひょろのフォーク歌手だった)長渕剛が「長渕剛」になるためにこれまでどんな努力をしてきたのだろうか、とか、日々どんな努力をしているのだろうか、というようなことを思うと、一抹の同情を感じざるを得ないのである。
そういう感覚は、だんだん理解されにくいものになっているのかもしれない。「ああいう体育会系でヤンキーの人は嫌だ」としか思わない人も多いのだろう。
それも仕方のないことなのかもしれない。でもやっぱり僕は、清原のことがあまり嫌いにはなれないのだ。